市民寄贈の古地図が語る小樽の自然 小樽市総合博物館


map1.jpg 小樽市民から、小樽市街地を取り囲む森の植林の様子が描かれた貴重な「小樽方面造林明細図」が6月に小樽市総合博物館(手宮1)に寄贈された。
 この地図によって、小樽の現在の森が、100年前の人々の手によって作り出された景色だということが見て取れる。同館では、「小樽の歴史を見る時に市街地だけでなく、山の方にも目を向けるきっかけとなりそうだ」としている。
 「小樽方面造林明細図」は、市民が、Yahooのアンティークオークションで入手したもの。小樽の古い地図は、3万円などの高値が付けられるが、この地図は1,200円と低価格だった。
 寄贈を受けた同館では、この地図の作成年を検証。幌内鉄道(北海道炭鉱鉄道)と北海道鉄道が接続されていることから、1905(明治38)年以降。さらに、手宮付近の海岸には、1908(明治41)年竣工の北防波堤や、1911(明治44)年竣工の高架桟橋が描かれていないことから、明治40年前後と推測した。
 地図の中で、特筆すべきところは、丸山などの山間部をすべて描いている点だという。明治末の地図は、陸軍測量部の50,000分の1の地図を除き、市街地周辺のみが描かれているものが多く、同館所蔵する地図の中に山間部の地図がない。図では、植林の年度や植種、地点などが詳細に記述されており、小樽駅西側の富岡から長橋、赤岩山が、明治20年代の植林と示されている。
 「小樽周辺の山が、幕末から明治にかけての時期、ほとんど伐採されてしまい、函館奉行所や開拓使がたびたび植林を命じていることは様々な史料からも明らかです。当館所蔵の絵はがきに明治30年代の龍宮神社の参道を撮影したものがありますが、社殿後ろ側、現在の富岡ニュータウン付近に細いマツが整然と並んでいて、いかにも植林であることがうかがえます。
 これらの伐採は、もちろん爆発的に増加する住民の燃料としての薪需要もありましたが、ニシン粕生産のための燃料確保のためと考えられます。この地図には幕末や開拓使時代の植林は表示されていませんが、市街地を取り囲む山の木々は明治以降の植林による人工林であることが明白に理解できます。現在の森は、実は百年前の人々の手になる景色であるのです」(同館歴史担当・石川直章学芸員)。
 この植林の際に苗畑となったのが、現在のなえぼ公園で、「小樽の山の景観を生み出した場所であり、ここの公園の働きなしに現在の緑豊かな小樽の自然を考えることはできません」。植林地の奥には、1902(明治35)年に植樹されたヤマザクラがあり、これが、現在、「明治の桜」と呼ばれている。
map2.jpg 「この地図(のコピー)を手に小樽近郊の山を歩けば、そこに百年前の人々の仕事をしのぶことができるのではないでしょうか」と語る。
 また、この地図には、海岸線にアイヌ語由来と思われる地名がいくつか表記されており、これを「地図の持つもう一つの希少性」とする。しかし、陸軍測量部の地図とは微妙な表現の違いがある。桃内と塩谷の間にある小河川「チャラセナイ」を「チヤツナイ」、山中海岸付近の「プクサタヲン」を「プクサノオシ」としている。アイヌ語地名の表音がどのようなものだったか類推させる資料だと、今後の研究に生かすことにしている。
 石川学芸員は、「明治の造林図は、小樽の歴史を見る時に市街地だけではなく、山の方にも目を向けて見るきっかけとなりそうです。私としてはこの地図に『学校植林地』を見つけてうれしくなりました。『稲垣日誌』にたびたび登場する、市内の児童が苗をはこんでいた場所を見つけることができました」と語っている。
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