運河保存の峯山冨美さん(96) 28日に老衰で逝去


mineyama.JPG 元小樽運河を守る会会長の峯山冨美さん(96)が、12月28日(火)夜、老衰のため逝去した。
 峯山さんは、道道臨港線建設のために小樽運河とその街並みを埋め立てるか否かを争点にした小樽市と住民による運河論争(1973~1984)で、「小樽運河を守る会」の会長として、約10年間先頭に立って運河と街並みの保存を強く訴えた。
 1914(大正3)年虻田郡真狩村生れ。1924(大正13)年、10歳の時に父親の転勤で小樽へ。庁立小樽高等女学校補習師範科卒業後、三菱商事に入社。1944(昭和19)年、夫の転勤で伊達市に引越したが、1955(昭和30)年に小樽に戻り、北手宮小学校に勤務した。運河の景観を守りたいとの意思を持つ一主婦から、1975(昭和50)年の「小樽運河を守る会」設立時に副会長、3年後の1978(昭和53)年に会長に就任した。
 国会に押しかけて議員の前で演説した話しは有名だ。「地方の奥さんが国会議員の前で話し、まちづくりを訴えた人は当時の日本の中でもいないだろう」(保存運動関係者)。
 10年以上、保存運動の同志たちとともに運河と街並み保存を強く訴えた結果、運河の全面埋め立てから一部埋め立てに計画を変更させた。1983(昭和 58)に運河の杭打ちが始まり、半分が埋め立てられ道道臨港線と散策路が整備され、1986(昭和61)年に現在の姿となった。
 この運動が全国のまちづくりに大きな影響を与え、「小樽運河と石造倉庫群の保存にかかわる市民運動を通じて小樽都心部の復興・再生に貢献した」として、2008(平成20)年、日本建築学会文化賞を受賞した。
 この記念シンポジウムでは、「運河保存で一番辛かったことは、昭和58年11月12日の運河の杭打ち。杭が埋められていく中、私達は、橋の上で止めてと訴えたが、作業員は表情ひとつ変えなかった。でも、運河に杭は打たれても、私達の心には杭は打たせないと頑張った。 運河の保存運動は、小樽を2分するまでに高まった。こんなに盛り上がる街はない。小樽はそれをやった。小樽には、底力があると信じている。みんなの力でまちづくりを行って、楽しく、充実した生活が出来るようにしなければいけない。今を生きる私達に出来ることは、過去の遺産を残して、次世代に残すこと」と講演していた。
 講演後、体調を崩し、入退院を繰り返すようになり、24時間体制で家政婦の介護を受けていたが、12月28日(火)夜に老衰のため逝去した。葬儀は、峯山さんの遺言通り、小樽シオン教会(富岡1)で営まれる。通夜30日(木)18:00、告別式31日(木)10:00から。
 守る会で一緒に活動し葬儀委員長を務める山口保小樽市議は、「ごくろうさんでした。その一言しかない。運動のシンボルとして峯山さんが頂点に動いた。遺言では、小樽に緑の景観を作って欲しいと願っていたので、この思いを継いで緑を植えていく」。
 小樽運河保存を舞台とした演劇「赤い運河-神様のいない祭り-」を2009(平成21)年に行った演劇集団テアトロ浅草橋の米本幸順代表は、「演劇の際には、峯山さんに取材をさせてもらった。涙を流して話してくれた思いを、演劇を通して子供たちに伝えることが出来た。峯山さんが最後まで全面保存を訴えたから、今半分残っている」
 運河を守る会解散後に結成した小樽再生フォーラムの志佐公道さんは、「偉大なる小樽の母。日本のまちづくりの母とも言える」と偲んでいた。