熱く燃えたシニアの”初恋” 小樽で第二の人生


 還暦を過ぎた男女二人のシニアが、お互いの人生の紆余曲折を経て、46年間温めていた”初恋”を、太平洋を越えて結実させ、第二の人生を、この小樽の街で始めている。
 長い期間を経て、とうとう昨年5月に、結婚にゴールインしたのは、2007年9月に小樽ジャーナルへアメリカからメールを送ってくれた星功さん。メールは、2007年9月7日。関連記事
 星功さん(67)は、余市で生まれ、小樽市立旭丘(西陵)中学、小樽緑陵(商業)高校を経て、小樽商科大学を卒業した。大卒後、アメリカに渡り、以降、2008年10月まで43年間、アメリカに滞在した。
 長く滞在した都市は、メリーランド州グレンデール市に約15年、ニュージャージー州アトランチックシティ市に約24年など。NASA(米国航空宇宙局)を経て、CSC(コンピューターサイアンセス)に入社。従業員9万人の同社で、課長、部長、専務を務め、最後は、同社システム監査役だった。2008年12月付で、同社を定年退職した。米国市民権を取得し、ニュージャージー州最高裁判所通訳や陪審員(裁判員)なども経験した。
 星さんが、還暦を過ぎて、再び結婚にゴールインした裏には、長い間、二人の男女に秘められていた”純愛物語”が隠されていた。星功さん(67)と妻の千鶴子さん(62)は、クリスチャンで、昨年5月、ハワイのオアフ島の教会で挙式、10月に帰国し、11月に小樽グランドホテルで祝賀会を終え、新たにシニアの二人が、小樽で第二の人生を始めた。
 その経過は、本社に寄せられたメールが詳しく物語っている。

 「私たちは2008年5月末日, ハワイはオアフ島の最北端のメソジスト教会にて挙式、11月に今は無き小樽グランドホテルでの祝賀会を終えて、この故郷の小樽にて第二の人生を始めました。当年妻は62才、私は67才。ハワイでの結婚式は30年前の約束でした。
 私たちの出会いは46年前の1963年、余市にあるキリスト教会でした。私の妻は当時高校1年、私は大学生。翌年の1964年4月、私は教会の日曜学校のクラスを分担する事になり、彼女は偶然にも私の助手になりました。おとなしい、しかし、しっかりした高校生でした。二人で協力しながら日曜学校の準備等をしているうちに、双方共に何か感じ合っているものがあったと思います。 将来この女性と結婚する男はきっと幸せな生涯を送るに違いないと思いました。せめて彼女が私の年齢層だったらと思いました。私の初恋の女性でした。しかし、お互いに告白する事も無く、その年、師走近くになって私は留学渡米、彼女は二人で持っていたクラスを単身で引き継いで3月まで担当しました。
 教会は私の留学に際し二冊のサイン帳を思い出として渡してくれました。渡米して大学の生活に慣れた頃、始めてそのサイン帳を開け、彼女が記した詩を読んで私は感動したのです。『空の星を見るたびに貴方を思い出します』、と書いてあったからです。後日分かった事は、彼女にとっても私は初恋の男でした。
 アメリカ大陸と太平洋を越えた文通が始まりました。しかし『去るもの日々に疎し』の如く、始まった文通も途切れ途切れとなり、音信不通となりました。 1969年、私は米国の大学を卒業したものの、日本国内での就職ならず、米国に残りヴァージニア州にて公立学校の数学科教員になりました。私が彼女に再会したのは母の危篤の知らせで帰国した1972年。彼女は希望通りに幼稚園教師になっていましたが独身でした。私は事情があって既に結婚してましたが、高校生であった彼女の存在が気になり、再会する事に決心したのです。それは私の非情きわまる虐げられた結婚生活の果てでしたし、私は当時離婚するつもりでいましたので、彼女との再会は可能であれば将来の約束の為でした。
 私は何事も無かったかの様に帰米、再び彼女との国際文通が再会しましたが、それが発覚され、その為に無情、非情の毎日を過ごす事余儀なしとなり、1978年4月、最後の手紙にて彼女との国際文通に終止符が打たれました。どんな事が起こってもお互いの新住所は知らせ合おうと云う約束はしたものの、連絡方法も閉ざされ、私はアメリカの地で彼女の平安を祈るのみの毎日を過ごしました。
 それから28年の年月が流れた2006年の夏、私は小樽で初めての高校時代のクラス会に出席する為に帰国してました。その時私は既に離婚して10年、アメリカで独身生活をしていましたが、この間、結婚していた彼女も夫が2004年に天に召され、生涯再婚せずとの公言で独身生活をしておりました。
 日本滞在最後の日に奇跡的に得た彼女の電話番号を恐る恐る回した私でしたが、彼女が幸せにそして平穏無事に人生を送っているのなら、との願いがありました。受話器を取った彼女、昔と変わらぬ落ち着いた声に私は思わず安堵し、その昔自分の弱さの為に彼女の青春時代を破壊し、且つ不幸な人生を余儀なくされた彼女に心からの謝罪を伝えるのがやっとでした。小樽で彼女の最後の声を聞いてから実に34年、音信不通になってから早や28年の年月が無情にも流れていました。私は出来る事なら34年前に戻りたいと告げました。彼女は『許す』と云う言葉の代わりに、『貴方から頂いた手紙、写真も含めて全て隠し持って来ました。今日の日の為に……』と言ってくれました。
 私も同じでした。この40数年間、太平洋とアメリカ大陸を越えて届いた彼女からの手紙、写真は捨て切れず、全て隠し持っていた事実を彼女に告げた時、私たちの気持ちは将来の約束を交わした34年前に戻っていました。
 私は2008年米国にて定年を迎え、10月末日、日本に永久在住の為帰国して参りました。アメリカと言っても40数年も住めば都、永久に去ると決心するのには抵抗感もありました。しかし日本には『第二の人生』が待っていたのです。日本男児に生まれ、夢でしか存在しなかった女性を幸せに出来る事を誇りと思えば、アメリカを去る事に未練はなくなりました。
 還暦も過ぎた私たち、これからは一日一日が二度と帰らぬ日と思って生活をしております。家事は料理も含めて全て二人一緒です。何処へ出かけるのも二人一緒です。私は、自分の妻の人生が伊藤左千夫の『野菊の墓』の民子の様な人生にはしたくないのです。
 34年間の罪の償い、お互いに許し合う事によって得た幸せ。周囲の人々は今日ある私たちは『生まれた時から赤い糸で結ばれていた』に違いない、と言います。しかし私たちは残り少ない人生を神の恵みに感謝しつつ、思い出の多い小樽で幸せに余生を送っています。

星   功 niseko@aol.com 」。

 星さんは、現在、英語力を活かし、ボランティアで、市の観光通訳としても活動している。
 熱く燃えたシニア二人は、結婚して1年以上経過しているが、「38年前から結婚していたような気持ちで、お互いの間に何のギャップも感じない」と話している。
 「40年前の小樽の町とは大きく変わって、活気のない町になってしまっているが、『小樽よ、大志よ抱け!』と言いたい。アメリカと日本と離れていても、今では、E-mailが太平洋を越えて届くようになって便利になった。インターネットでも、小樽の情報をリアルタイムで得ることが出来る。小樽のことは、小樽ジャーナルで、詳しく知ることが出来る。小樽ジャーナルに掲載されたメールにも大きな反響があった。小樽ジャーナルへの信頼度は、100%だ。」と、語ってくれた。
 太平洋を越えて、遠回りをしながらも、結婚というハッピーエンドを迎えた優しきシニア二人が、小樽の街をゆったりと歩みながら、充実した第二の人生を送られることを。