鉄道のまちを再認識 「手宮の歴史と未来を語る会」


temiyakatarukai.jpg 「手宮の歴史と未来を語る会」が、1月31日(日)13:30~15:30、小樽市総合博物館(手宮1)で行われた。
 NPO法人北海道鉄道文化保存会(飯田勝幸代表理事)の主催。鉄道のまち手宮を再認識することを目的に、4回の語る会を行う。
 第1回目は、「手宮の歴史と巷ばなし」と題し、佐藤卓司学芸員の講演と、手宮っ子によるフリートークを行った。会場には約70人の市民が集まり、北海道の鉄道の発祥の地・手宮についてじっくりと耳を傾けた。
 佐藤学芸員は、「明治13年に開業し、駅舎が色々移転するのが特徴的。明治17年に出来た2代目の駅舎は、現在、ゼロマイルポイントとして残されている。明治42年に、手宮線という名前がつき、手宮から小樽までの2.8kmが手宮線となった。昨年がちょうど100年だった。戦争時代に入り、営業を止めたりするが、昭和23年に営業を復活させた。その時の手宮の人の要望など、活動した様子が石碑となって残されている。昭和37年に営業が廃止され、貨物運送だけとなった。昭和60年には貨物運送も廃止となった」と、当時の写真を紹介しながら、手宮線の歴史を解説した。
 この後のフリートークでは、手宮っ子の加賀元継さん(加賀板金工業)、木村文彦さん(稲荷神社宮司)、島影良彌さん(島影商店)、比良嘉恵さん(レストラントレノ)、村上太四良さん(元村上菓子店)の5人が参加し、それぞれの手宮の思い出話を披露した。
 島影さんは、「昭和22年生まれで、戦後の育ち。手宮の素晴らしさ、発展していた町の様子は基本的に分からない。学生時代は、斜陽の小樽というレッテルが貼られていた。ただ、石炭の積み出し港で栄え、物流が多かったという話は聞いている」
 村上さんは、「大正7年生まれの91歳。ずっと手宮で育った2代目。昔は、まっすぐ港に下りて、泳ぎに行った。今は汚れてしまっているが、昔は海の底まで見えてきれいだった。製罐のポーで朝を迎え、夕方のポーで家に帰った。つぼ八のあるところは映画館でよく観に行った。市場もすごい活気だった。手宮の市場は、小樽で一番早い市場。高島の漁師が魚を持ってきて露店を開いたのが始まり」
 加賀さんは、「昭和5年生まれで82歳になりました。手宮の人は祭り好き。選挙になると、仕事を投げてでも参加し、手宮から8人の市会議員がいた時もあった。昔は水産関係が盛んで、もらいものだけで間に合ったくらいだった。手宮公園の下は鉄道官舎で、シガのところもそうだった。清水町は製罐の社宅で、大きな社宅があったのを覚えている」
 比良さんは、「小学校は手宮西小だったが、あとは手宮から札幌に通っていた。汽車に乗ると、ガンガン部隊のおばさんたちが一緒に乗っていて、汽車が動くと何か食べだした。その色々な匂いを思い出す。東京にしばらくいて、小樽に帰ってきた時に、汽車と縁があって、今、手宮の総合博物館前に汽車のレストランを営業している。水産関係の男の人たちは威勢が良く、今の草食系男子なんてもう問題にならない。その勢いが町の勢いになった」と語った。
 飯田代表理事は、「手宮の文化は、鉄道車両だけでなく地域との関わりが大事だと思う。皆さんの英知を結集し、この地域の息を吹き返したい。誰もいなくなったらご先祖さまに申し訳ない」とまとめた。