手紙が語る! 多喜二の最期に新たな証言


 小樽が生んだプロレタリア作家の小林多喜二(1903ー33)の死について書かれた手紙が、氏家喜連川(うじいえ きつれがわ)歴史文化研究会(栃木県)の研究者により発見され、このほど、市立小樽文学館(色内1・玉川薫館長)に寄贈された。
 同館・主幹学芸員亀井志乃氏が中心となり、調査したところ、重要な証言が記載された手紙であることが分かり、2月16日(月)に記者会見を開き公開した。
takijiletter1.jpg 寄贈された手紙は、思想犯の疑いを掛けられ、多喜二より半月早く、築地署の留置場の第一房に収容(多喜二は第二房)されていた生物学者・石井友幸氏(千葉県東金市・1903~1972)が、多喜二の遺体引き取り人の1人で、多喜二の死の前後の状況について、最も詳細に紹介した小説家の江口渙氏(栃木県那須烏山市・1887~1975)へ宛てた、昭和37年1月10日と昭和42年3月7日付けの2通の手紙と、昭和42年3月20日付けのはがき(引用を承認したもの)。1通目には、留置場の間取りの図もあった。
 1933(昭和8)年、多喜二は警察で拷問を受け死亡した。その状況を、江口氏が戦後、紹介されたものでは、多喜二が母親へ死んだことの伝言を頼んだり、便所で下血し、留置場で息を引き取ったと伝えられている。それ以前の戦時中には、死ぬ間際には、「日本共産党万歳!」と声高に叫び続け死んでいったというような”伝説”も広まっていた。
 手紙には、それらを覆す重要な証言が記されている。1通目の手紙には、手書きの留置場の詳細な間取りもあり、資料としても貴重。
takijiletter2.jpg 2通目には、石井氏が自ら見聞きした事柄を手紙(原稿用紙3枚分)にしたためたもので、多喜二は保護室に入れられる前に息を引き取っていて、彼ら(警察医)は、申し訳的に人工呼吸などしたのかもしれませんと記されていてる。
 これらの手紙から、多喜二の死に関する新たな証言が見つかったことになり、今後、新たな解明に繋がることに関係者は期待を寄せている。
 手紙の文章の一部は、昭和42年6月・日本共産党中央委員会発行の「文化評論」で、2通目の手紙と1通目にあった地図を掲載しているが、解説などは付されていない。
 文学館では、多喜二について第三者が交わした手紙が見つかり、多喜二の死に関する重要な証言として、広く世の人に知ってもらいたいとしている。
 2月20日の多喜二の命日に合わせ、18日(水)から同館の小林多喜二コーナーで、原物の展示を予定している。
 小樽文学館HP
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