敗戦前後の小樽をリアルに!早川氏の未発表原稿


 明治から昭和期の経済学者で、小樽出身の小説家の早川三代治氏(1895-1962)が書いた未発表原稿が、昨年秋に発見された。調査研究を続け、市立小樽文学館(色内1)玉川薫館長らが、8月4日(火)、市役所(花園2)本館2階記者室を訪れ、原稿を公開し内容を説明した。
hayakawa2.jpg 玉川館長によると、同館では、早川氏について、重要な文学者であることから、早い時期から資料を集め、遺族に協力を募り特別展を開催した経緯がある。その後の調査により、更に活動の広さや重要な存在であることが分かり、より深く広く業績を紹介する計画を立てていたところだった。
 調査を進める中で、遺族により未発表の原稿がいくつか見つかった。その中でも、今回の「敗戦前後」とタイトルがついた1945(昭和20)年前後の小樽の状況を克明に記録した、他に例のない貴重な原稿(記録)でもあることが分かった。
 館長は、「敗戦前後の小樽の貴重な様子が分かる優れた作品のひとつ」と高く評価。調査を進めた同館・亀井志乃主幹学芸員により発見された原稿について説明があった。
 見つかった原稿の表紙には、早川氏自身の字で「敗戦前後」と書かれ、昭和20年融雪後8月20日までを綴ったもので、第1部が8月15日前で、第2部が8月15日後と書かれ、200字詰め原稿用紙に、1部527枚・2部197枚で計724枚に及ぶ。
hayakawa1.jpg 原稿用紙の大部分は、株価推移表の裏紙にマス目が印刷されたものを使用している。証券会社から譲り受けたものにマス目を印刷したと推測でき、このことから、昭和20年代前半の戦後の紙不足の時代背景を物語っている。
 昭和24年から小樽商科大学の教授になっていることから、執筆量が絞られ、昭和23年までの間に成立したと考えられる。
 内容については、語り手の「私」とは、早川氏本人で、太平洋戦争末期の約5ヶ月間の小樽の様子を詳しく描いた長編の実録小説。日付を明記(一部ない部分もある)し、その日の出来事が綴られている。
 建物が空襲で延焼しないように間引く「建物疎開」についてや、工場を経営していたため、兵器製造の割り当てや、子ども達を分散して学習する「家庭習練」の様子、終戦直前の8月13日に、義勇隊戦闘隊の結成式の様子など、些細なことではあるが、そのようなことがあったと描写がとてもリアルに書かれている。
 特に、7月15日の小樽空襲については、200字詰め原稿用紙48枚分に、早川氏が見た1日がかなり細かく描かれている。
hayakawa3.jpg その日の4:50から書かれ、けたたましくサイレンが鳴り、飛び起きて子どもらに仕度をさせ、大急ぎで朝食を済ませた。その後、ラジオから目に見えるように敵機の行動を詳しく伝えた内容や、静まり返っていたこと、砲弾の炸裂する轟音は、正午過ぎに聞こえ、石蔵の中へ避難した様子。周囲の状況を見ると、5、6人の警防団員が、木や庭石に登り、港の北部や浮船渠(浮きドック)のあたりを眺め、空襲見物をしている様子が記されている。
 同学芸員は、「警防団員の意外な一面も知ることができ、一般的な記録と違い、文学的な情景描写を交えながら、リアルにその日の一断面を描き、日記としても詳しく書かれ、貴重である。他にも興味深いヶ所やドラマティックなヶ所が多々あり、何れ、この原稿を活字化し、皆さんにもご覧いただけるようにしたい」と述べた。
 また、玉音放送の翌日には、早川氏が島崎藤村にもらった掛け軸を、緑学校(現・緑小学校)の校長と教員を励ますために贈ったというエピソードが記され、緑小学校へ問合わせたところ、保管されていることが分かり、原稿の記述の確かさを裏付けた。
 原稿は、現在、遺族が所持保管しているが、内容研究のために借用している。
 前後70年の終戦記念日に合わせ、同館で、8月8日(土)から9月6日(日)まで、「小樽・坂道物語展」と併設し、この原稿の公開展示と、島崎藤村書の掛け軸も緑小学校から借りて展示する予定。
 早川三代治(wikipedia)