小樽の日常を記録!「稲垣益穂日誌」第32巻刊行


 明治から大正にかけて小樽に住み、家族の日常を記録した稲垣益穂日誌の第32巻(257ページ・300部)が、3月22日(水)、小樽市総合博物館(編集・発行)から刊行された。
 稲垣益穂日誌とは、稲穂尋常高等小学校や小樽盲唖学校の校長を務めた稲垣益穂氏(1858~1935)が、1896(明治29)年1月1日から1935(昭和10)年1月27日までの亡くなる直前まで、ほぼ毎日記された日誌で、初巻含めて55冊となる。
 得意な挿絵を交え、小樽で過ごした日常生活を稲垣氏の観点で克明に記録し、当時の小樽の町や人々の様子を知る貴重な資料となっている。
 稲垣氏は、1858(安政5)年、高知県長岡郡西野地村(現南国市)に生まれ、高知県で小学校補助教諭となった。1892(明治25)年には校長に任命され、岩手県、宮城県と転じ、1903(明治36)年に小樽区稲穂尋常高等学校長として着任し、以後、小樽に住む。1920(大正9)年に小樽盲唖学校嘱託、1921(大正10)年には庁立小樽商業学校嘱託、昭和10年死去。
inagakidiary32.jpg 同日誌は、和紙に縦12行で筆を使い、ひらがな・漢字・カタカナのくずし字で表記され、現在使用されない表現も多く解読が困難。そのため、編集・校正を、同館の歴史ボランティア8名と同館職員2名が携わり、出版へ向けて作業が続けられている。
 月1度同館・運河館に集まり、原文のコピーを1日分ずつ振り分け、自宅に持ち帰って読み起こし、集まった時に読み合わせを行い、気づいたことを指摘し合い、翻刻の作業を進めている。現在、34巻の翻刻・製本に向けて校正作業中。
 1920(大正10)年8月から1921(大正11)年3月の日記を収録した32巻は、小樽盲唖学校の校長を務めていた時期で、当時の聴力障害・視力障害児教育の様子について、コミュニケーションをとるための試行錯誤や、同校の遠足・社会見学、札幌へ花見に出かけたことなどが綴られている。視覚障害者と聴覚障害者が一緒の教育にも無理があると感じていた。
 原敬内閣総理大臣の来樽や、安田善次郎が朝日平吾に殺害される事件にも触れ、巷の評価を覆す稲垣氏の観点で事件に触れ、歴史を学ぶ人にとっては興味深い内容となる。
 また、家族に不幸が続いた時期でもあり、嫁と妻を失い2人の幼児が残され、小樽盲唖学校校長を退職。悲しい心情も伺い知ることができる。
 同日誌の翻刻に携わり6年の同館スタッフ・山本侑奈氏は、「これまで歴史として捉えてきたことが、この日誌の中では、歴史ではなく生活の中でのリアルタイムな出来事として体感でき、すごく興味深い。ボランティアも作業を進めるうちに、タイムカプセルに放り込まれた感じがすると話している。稲垣氏が会う人や店・学校を追体験し、日誌1冊をとっても、様々な事柄が書かれ、40年間ずっと、北海道の経済都市・小樽の成長する変遷を、稲垣氏の視点で見つめた日誌から、自分の興味のある小樽の物事を調べるのも面白いと思う」と話した。
 同館では、高知県の教員時代の初巻・第1巻(明治29・30年)、小樽着任以降の第8巻(明治36年)~今回の32巻(大正10・11年)の計27巻分の活字化を終了した。第32巻は、国立図書館、全国各地の博物館、市内小中高校等へ配布し、50部のみ販売している。
 小樽市総合博物館(手宮1)本館ミュージアムショップ・ポッポーと運河館(色内2)受付で、1冊700円(税込)で販売中。問合せ:0134-22-1258 小樽市総合博物館運河館
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