多喜二没後87年 奥沢墓地で墓前祭

 小樽多喜二祭実行委員会は、これまで命日の2月20日に行っていた多喜二墓前祭を、没後87年の今年は22日(土)11:00から、多喜二が眠る奥沢墓地(奥沢5)でしめやかに挙行した。

 毎年、実行委員が墓まで道をつける雪踏み作業を行うが、例年にない少雪となり、墓前祭当日も穏かな天気となった。

 会場にベートーベンのバイオリン協奏曲が流れる中、札幌からのツアー客と合わせ111名が、墓前に赤いカーネーションを手向け、多喜二の生きた時代に思いを馳せた。

 多喜二は秋田生まれの小樽育ち。小樽高商(現小樽商科大学)で学ぶ。文芸雑誌に数多くの作品を投稿、文壇デビューを果たし、蟹工船などの名作を生んだ。

 当時の治安維持法違反容疑で特高警察に逮捕されても、信念や思想・政治的立場を変えなかったため、29歳という若さで拷問によって虐殺された。

 この墓は、1930(昭和5)年に多喜二が上京後、母の念願だった墓の建立のために、原稿料を得た中から500円を送金。1930(昭和5)年6月2日に建てられ、1933(昭和8)年2月に多喜二が虐殺されて、母が遺骨を抱いて小樽に戻り納骨。

 墓前祭は、1988(昭和63)年の没後55年から、2月20日の命日に毎年行うようになり、今年で33回目となる。

 2月の命日に拘ってきたが、実行委員も高齢化が進み、来年以降は集まりやすい時期を考えていると明かし、雪の中での墓前祭は今年で幕を降ろす予定。

 墓を大勢の人が囲む中、同実行委員会共同代表のひとりで小樽商科大学名誉教授の荻野富士夫氏は、「多喜二はこの墓を見ないまま亡くなっている。母が多喜二の遺骨を持って小樽に帰ってきた時、龍徳寺で100日の法要を執り行った。来年以降、なんらかの形で墓前祭をするならば、お墓を建てた6月初めか、100日法要をした5月末が良い時期だと思う。

 東京でも多喜二関連の場所を歩いてみたが、やはり、この寒さや雪の中で墓前祭を行うのが、もっとも多喜二を偲ぶのに相応しい場所や時間だと思う。多喜二がめざした変革の志を、改めてこの場所で確認したい」と述べた。

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟北海道本部・宮田汎会長と、日本共産党北海道委員会・畠山和也氏の挨拶の後、墓前にカーネーションを献花し、冬の墓前祭を締めくくった。

 記念のつどいは、小樽市民センター(色内2)マリンホールで14:00~16:30に実施。多喜二が口ずさんだブラームス作曲「折ればよかった」や「愛の讃歌」、「初恋」など、ニセコ在住の大橋理絵氏によるヴァイオリン独奏を鑑賞。元文部科学事務次官の前川喜平氏を招き、記念講演「安部政権下の教育」と題して、今後の日本を担う子どもたちはどうなるか?について語られた。

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