2004年1月のベストママ
おたるむかし茶屋

野澤 葉子ママ

 チントンシャン・・・粋な三味線の音が、花園小路から流れ出て来る。今年6月に80歳になる、現役の芸者「喜久さん」こと、野澤葉子ママの経営する“おたるむかし茶屋”からの調べだ。

 芸者になって67年。小樽花柳界の盛衰を、身をもって知っている、小樽文化史の貴重な生き証人でもある。

 岩内の床屋に生まれ、尋常高等小学校の頃から、三味線と踊りが好きで、習っていた。踊りがもっと習えると、小樽に来たところが、芸者置屋さんだった。そこの養女となり、14歳で「半玉」に、17歳で「一本」になった。「ちゃんとした試験があり、それに合格したのよ」

 小樽の最盛期には、芸者は300人を超え、市内は料亭や料理屋が軒を並べ、毎晩宴会続きで、1人で何軒もハシゴする程だったという。最も「今では、病院に入っているか、訳が判らなくなっている人や、途中で辞めた人などで、芸者は誰もいなくなってしまったよ。アハハ」と笑い飛ばす。

 戦争中には、芸者を辞めさせられ、小樽の海軍軍需部に勤めたという。小樽港の岸壁で、敵機が船を機銃掃射しているのを見ていた。みんな逃げていなくなってしまったけれど、1人だけで見ていたという気丈さだ。

 船が岸に戻ってくると、船体は穴だらけで、甲板には血がいっぱいで、消防用のホースで洗い流していたという。戦争当時の記憶もハッキリして、話は尽きない。

 戦後に、警察から言われ、24人の芸者が集って復活したが、自分が一番年下だったという。一時は70人位までになり、結構忙しかった。しかし、だんだん客が札幌に流れ、淋しくなった。若い人のなり手もなくなり、みんないなくなってしまった。

 喜久姐さんの頭の中には、往時の小樽の繁栄の様がくっきりと刻み込まれている。倉庫屋・石炭屋・繊維屋・船屋・雑穀屋などの財を成した面々が、連日連夜繰り出し、大賑わいだったという。

 「それにしても、最近の小樽の景気の悪さは1等賞で、こんなのは初めてだねえ」と嘆く。それでも当時を知っている年輩の常連さんが、チョクチョク昔話をしに、顔を出す。この常連さんを相手に、日本酒をグイッと傾けながら、三味線を繰る手さばきと、はりのある声の端唄に、66年を積み重ねた芸者稼業の年期が漂う。

 座敷の敷居の上り下がりも達者なもので、今でも元気そのもの。「病気らしい病気はしたことがないよ。もっとも3年前にルスツに行った時に、てっくりかえってしまって、顔が腫れて、お岩さんみたいになってしまった」と笑う。

 小樽「最後の芸者、喜久姐さん」こと、野澤葉子ママだ。チントンシャン・・・・。

おたるむかし茶屋

小樽市花園1-8-24
0134-22-8736