2004年 ベストマスター

2004年12月のベストマスター
とんこつラーメン あっぱれ亭

清水 正己マスター

 「ラーメンは自己主張である」と、小樽にさっぱり味だが、コクのあるとんこつラーメンを定着させた店“あっぱれ”のマスター。

 店をオープンするまで、全国のラーメン食べ歩きは2,000件に及ぶという。色内小、長橋中、千秋高を経て、第1ゴムに入社。のち、和弘食品に12年間。ラーメンのタレを売り歩く新規開拓営業マンで、社長賞のほとんどをもらっていたが、失敗も多く、始末書も何度も書いたと笑う。

 この後、ヤマモリ(株)に入社。札幌営業所でラーメンのタレの開発研究に励む。お客さんの要望に合う味を出す工夫を重ねたという。しかし、高卒の中途入社では、先が見えているサラリーマン生活に嫌気がさし、平成7年に手宮にラーメン店を開業。

 「ラーメン屋にタレを売りに行ったが、まさか自分がラーメン屋をやるとは思ってもいなかった。一生サラリーマンで終わると思っていた。」

 手宮店がうまくいき、札幌大通のテレビ塔地下街に進出。フタを開けたら全然駄目で、お先真っ暗だった。トウキビ売りのおばさんや観光バスの運転手に無料券を出したり、ようやく女性客を獲得し軌道に乗った。宮の沢店では“あっぱれ”の店名のまま、全く違う味のチンタン(清湯)スープでラーメンを出したら、客からそっぽを向かれ失敗。店を閉め退却する決断は本当に難しいと知ったと話す。

 ラーメンの味にも、日々挑戦。カレーラーメンや金ごまラーメンなども試行。札幌店では金ごまが一番人気に。「せっかちだからいつも試行錯誤している。」サッカー、スキー、テニス、ゴルフもこなすスポーツマンでもある。

 来年4月にオープンする石屋製菓の出抜小路にも出店が決まり、新しい塩ラーメンと金ごまラーメンで勝負を挑む。

 口調の穏やかさにさわやかな笑顔が浮かぶ。ラーメンの話をしたら止まらない。ラーメン道を追い続けける夢追い人でもある。昭和25年生れ。

とんこつラーメン あっぱれ亭

あっぱれHP

お店のHP
2004年10月のベストマスター
日帰り温泉“ゆらぎの湯” ※閉店

大庭 宏之マスター

 小樽朝里川温泉の道道定山渓線の一本下の通りの朝里川の清流沿いに、柔らかいロウソクの灯りに包まれた、小さな日帰り入浴施設“ゆらぎの湯”がある。この“ゆらぎの湯”のマスターを2003年4月から勤め、深夜2:00まで入浴出来るユニークな施設に変身させた。

 東京世田谷で生まれ育った東京っ子。20年前の高校生の時に、東京から自転車旅行で北海道を一周し、高卒後には自転車で日本一周もしたという。

 北海道の写真を見て、こういうきれいな所に行ってみたいと、テントを持っての自転車旅行。河川敷や駅のロータリーなど、駅長室に泊めてもらったことも。北海道旅行で色々な人間的なふれあいがあり、こういう所で一生暮らしたいと思ったという。

 東京のサラリーマン生活が嫌になって、25歳で車一台に荷物を載せ、新潟からフェリーでやって来た。会社を辞めて北海道に行くというので、家族は全員反対だった中での決断だった。札幌でのアルバイト生活を経て、酒類販売のデリーズ静内店に5年間勤務。拓銀破たんでデリーズも消え、苫小牧のホテルを経て朝里のホテルへ。

 30代で絶対に独立したいと思っていたので、静内にあったバーをやりたいと、朝里のウィンケルで、バーを開き“ゆらぎの湯”をやってみないかとの話があり、日帰り入浴施設のマスターに。

 若い人は夜に動く時代で、他の入浴施設の閉店後にも、軽食をつまめるバーを併設して、深夜3:00(受付2:00)まで営業する。

 朝里川温泉の最近の水道水加水の問題などで揺れる中での温泉入浴施設の経営に力を注ぐ。「当施設は加水の時には、加水があると表示していた。不当表示などはしていないのに、他の地域の温泉問題と一緒にされている」と、怒りをぶつけられない悩みの中、時代に合った小さな日帰り入浴施設経営に、隅々まで心を注ぐ、どこまでも真面目なマスターだ。

日帰り温泉“ゆらぎの湯” ※閉店

小樽市朝里川温泉
0134-54-5006
平日・土曜日15:00~深夜02:00受付終了
日曜日・祝日12:00~深夜02:00受付終了

2004年9月のベストマスター
宝寿し

下間 康弘マスター

 香ばしく焙った穴子の握りが旨いと評判の花園の寿司店「宝寿し」を、先代から譲り受け暖簾を継ぎ、3年目に入る若い店主のマスター。

 稲穂小、西陵中を出て、同級生だった父親の寿司店に入り、そのままずっと修業を続ける。「辞めようと思ったこともあったが、それを乗り越えてここまでやってこれた」と、穏やかな口調で語る。

 札幌の寿司店でも、短期間だったが修業し、ここでの経験が一番勉強になったという。寿司一筋ですでに21年目の年期を誇る。

 20歳の時に出会って「ビッビッときた」女性と結婚。ママは旭川出身だが、「あっという間に結婚した」と笑う。二男一女の父でもある。寿司店修業も20年経ったら独立したいと思った時に、先代の「宝寿し」が辞めると聞き、先代に会うと、他にやりたい人がいっぱいいたのに、ぜひ君にやって欲しいと言われ、平成14年4月に新装オープンし、すでに3年目に入っている。

 「穴子の味だけは残してくれ」と言われた先代譲りの穴子の握りが、今でも人気メニューだ。「観光客も来るが、地元の人がかわいがってくれるので、この不況を乗り越えてこれた」と話す、大きな目の活発なママと2人で店を切り盛りする。

 温厚で優しい目で「小樽は人間的にあったかい街で、この花園でずっと一筋に生きてこれてありがたい」という。36歳の旬のマスター。

 酒は「嗜む程度」と言ったら、傍らのママがコケて大笑い。「いや、どこまでも付き合える」と言い換えた。姉さん女房のママとの絶妙な会話が心地良い。

宝寿し

小樽市花園1-7-7
二塚ビル1階
0134-23-7925

お店のHP
食工房 ZEN ※閉店

久末 克英マスター

 昼間は電柱に登り、CATV網の保守点検作業に、父子2人で取組む電信技師。手にしたペンチを、夜になると包丁に換え、レストランのシェフとして、腕を振るう料理人に変身する。昼と夜とで大きく変わる2つの顔を持つマスター。

 桜町生まれの樽っ子。桜町小・中を経て、小樽商業へ。札幌の調理師専門学校や小樽商大短期大学にも学ぶ。

 19歳で北海ホテルにアルバイトに入ったのが、料理への道の始め。北海ホテルに通算6年間。ダニーデンや札幌グランドホテル、小樽グランドホテルなどで料理人としての腕を磨く。すでに料理歴は20年にも及ぶ。

 実家の父がやっている通信電設の仕事も手伝わなければと、電波関係の各種の資格も取得し、朝から電波障害対策作業に追われる。ストレス解消にと「暮六つ」で知られた居酒屋跡に「食工房ZEN」を営んで3年になる。

 小樽近郊の市場から直接仕入の新鮮な食材を縦横に料理する。調理にかかると手と身体の動きが素早く、口の動きは連射砲のようになる。

 料理は1人2,000円で、堂々とした5品が並ぶ。料理人仲間が唸るワインの品揃えも自慢だが、グラス1杯500円で提供される。料理とワインとマスターとの会話を愉しむ女性客が8割という、たった1人で切盛りする料理店主。

 「自分のわがままを売りにしているので、ゲストのわがままなリクエストも全て応じることにしている」「ワインの持込み料は取らないけれど、勉強のため1杯だけ飲ませて!」と、客のワインの持込みキープも認めている。

 食材や調理を語り始めたら、口はさらに滑らかになり、当分は止まらない。1963年(昭和38年)生れ。41歳。

 
 

食工房 ZEN ※閉店

小樽市花園3-3-12

0134-24-4647

2004年8月のベストマスター
A・Kan(ア・カン)&穀物道 COOK MOD'S

真鍋 聡マスター

 市内サンモール一番街に、7月14日にグランドオープンした「おたる屋台村・レンガ横丁」に、地酒のカクテルバー「穀物道
COOK MOD’S」を営む。屋台村を背負う13店の店主のひとり。

 長いバンダナを頭巾のように巻いているのが珍しい。

 生まれも育ちも小樽。潮見台小・中を経て小樽工業に。高卒後、ダンスホールに1年間勤め、19歳から札幌へ。すすきのの夜の世界へ入る。バブルがはじける前で、高級クラブなどは繁盛していたという。

 小樽へ戻ったのは23歳の時で、牛若丸というスナックやパブ・アミーゴなどに勤める。28歳の時に、A・Kan(ア・カン)という店を浮世通りに出す。2年前にはスパルビル1Fに移転した。現在で9年目に入っている。

 花園暮らしが長く、花園町が好きと語る。「花園町に光が射してこないので、試行錯誤しながらでも、観光客を花園町にもっと来るようにしたい」と北観協の幹事、旧手宮線で2年前から始めた「あんどんカンテラ祭り」の実行委員、青年会議所(JC)のメンバーで、来年の50周年準備委員会の企画特別副委員長などをこなす。

 屋台村の出店は、知人に勧められてのものだが、これまではほぼ予想通りの展開だという。「小樽は観光にしか頼るものがない。1軒1軒に特長を持たせて、経営者の魅力を高めていかなくては」と、静かな口調の中にも、今後の花園や屋台村を背負って立つ決意がにじむ。1967年(昭和42年)生まれの37歳。

A・Kan(ア・カン)&穀物道 COOK MOD'S

A・Kan(ア・カン)
小樽市花園1-11-24スパルビル1F
0134-32-1666

穀物道 COOK MOD'S
小樽市稲穂1-14-15
0134-31-4141

2004年7月のベストマスター
coffee & dining ミレット

坂田 章マスター

 小樽生まれ。花園小、菁園中、小樽工業に。高校時代の友人がゴルフ好きで、ゴルフに目覚める。高卒後は、ゴルフのプロを目指し修業の日々を重ねる。

 ゴルフ場の研修生に入り、27歳でJPGA(日本プロンプトゴルフ協会)のティーチングプロの資格を取った。以後、レッスンプロ、インストラクターとして生活。小樽の人でも、レッスンをした人は数知れないという。

 トーナメントプロの資格にも3回挑戦したが失敗。ティーチングプロとして出られるトーナメントもあり、全国のゴルフ場を回る。トーナメントでは、2日間競技で名古屋で4位になり、その頃の賞金で20万円位を稼いだ。

 レッスンプロで生活していると、出られる試合にも出られない状態が続き、30歳位で辞めようと思ったが、また出場できる試合が出てくるので、結局辞めるのが35歳になった。

 現在でも資格は継続しているが、競技に出るのはお金がかかって大変だという。エントリーフィーやプレイ代などで、年間200万円位かかり、両親からも多額の支援をしてもらったという。

 花園で両親が経営していた喫茶“ミレット”という店に、手伝いに入ったのが4年前。

 店が、反対側の公園通りと花銀通りの角地に、新しい大型店をオープンしたのを契機に、両親に世話になった恩返しと、店舗経営に力を注ぐ。

 ゴルフで鍛えた、隆々とした筋肉質のガッチリした体型から、話すと優しい笑顔がのぞく。

 北観協社交飲食店組合の事務局長として“はしご酒大会”などを支える、39歳、独身のマスター。

coffee & dining ミレット

小樽市花園3-1-2
0134-32-7900

2004年6月のベストマスター
スナック JIN JIN

加賀 透修(ゆきのぶ)マスター

 端正な顔立ちでシェイカーを振る手つきの軽やかさに、客の7割が女性というもうなずける。小樽生まれ。緑小、東山中、小樽工業を出て、札幌の専門学校に。中学・高校とギターを手にバンドに夢中に。市民会館やマイカルでも演奏を開き、CDを出したこともあり、昨年まで、このバンドを続けていたという。

 札幌暮らしの後、東京でバーテン修行に励む。店を新規開店するからと、両親に呼び戻され、兄と2人で店を切り盛りする。

 同じビルの大きな店から、現在のこぢんまりとした店に移り、9年が経つ。

バーテンダーのカクテルコンペティションに、北海道からの2人に選ばれ、全国大会にも2回出場。オリジナルカクテルで7位に入ったことも。現在は、日本バーテンダー協会の小樽支部事業部長を務める。

 はしご酒大会を主催する北観協小樽飲食店組合の副理事長として、大会を裏方で支える、若きバーテンダーのマスターだ。

 ハモンドを経営する父親、フルハウスのママを母親に持つ、花園一家だ。東京の修行時代に覚えたゴルフも、今ではかなりの腕前だ。週1のゴルフを欠かさず、年1回は店のお客さんとのコンペも。

 バーテンダー協会や北観協小樽支部のこれから活動を背負って立ち、核となる31歳の若きマスター。

スナック JIN JIN

小樽市花園1-11-24 スパルビル2F
0134-24-9900

2004年5月のベストマスター
スナック アラジン

安達 七郎マスター

 小樽生れ。量徳小、住吉中、小樽水産高校を出て、札幌の中央市場の仲買商に勤め、6年間の修業時代を積む。
身体を壊し、一転、当時の国鉄バスの運転手に。退職金の話ばかりする公務員運転手の決まりきった進路が肌に合わず、3ヶ月で退職。
高校の時によく行った喫茶店のマスターが格好よく、将来の夢だった喫茶店を、24歳の時、札幌で始める。開店資金が足らず、22歳の時に結婚した女房の実家から借金しての開店だった。この喫茶店にインベーダーゲームなどを導入し、大いに儲かったという。
この時の資金を元手に、小樽に戻り、33歳で自分が8割、仲間4人が2割の出資で、ホストパブ「アラジン」を経営する。当時は、男ばかりの店をやることに、小樽では奇抜な目で見られ、酒屋までが半年ともたないと言ったが、半年もしたら、1日100人、1ヶ月3,000人ものお客で賑わうようになった。
仲間は、一人二人と抜け最後は自分だけになった。店は、時流にも乗り、かなり儲かり、散財もしたという。このほか、松竹ボウルにカフェバーをやったり、北海ビルでダンスホールもやった。それぞれ最初は、時代の波に乗ったが、時代とともに駄目になった。
「アラジン」は22年目で、スナック「コルドンブルー」は10年目となる。最近、都通りにカフェ・パスタの店「テッチーニ」を出し、3店の経営者でもある。

 今年の2月の誕生日に、「はしご酒大会」を主催する小樽社交飲食店組合の組合長に就いた。「はしご酒大会」の生みの親のひとりで、花園にお客を呼び集めることに熱意を燃やす。
花園飲食街を安く楽しく飲める、新たな企画も準備中で、生まれ育った小樽の街の活性化に力を注ぐ。
小樽の街の盛衰を身をもって知る。男4人女4人の8人兄弟の末っ子。1950(昭和25)年生れ、54歳のマスター。

スナック アラジン

小樽市稲穂1ー7-15
0134‐29‐3577

2004年4月のベストマスター
pubsnack PASSPORT

大潟 宙史(おおがた ひろし)マスター

 生まれも育ちも現在も最上町という「おもいっきりの」樽っ子。「最上は、最も上ではなく最上級の町ですからね。この町から離れられませんね。最も高校を出てから1年間だけ札幌でサラリーマンしたけど。小樽が良くて戻って来た」と言う。最上小、松ケ枝中、北照高に。少年時代はサッカーに明け暮れ、最上小サッカー部キッカーズのイレブンとして、全国大会にも出場。年間15回の大会でも1回を除きすべてに優勝し、すでに伝説になっていると胸を張る。「とても今の101キロのデブちゃんの体形からは考えられないでしょ!その頃は、あばら骨が見えてたくらいだからね。サッカーは、高校の時に辞めたが、2年前まで社会人チームでやっていたが、今は釣りと始めたばかりのゴルフに夢中に。なんで止まっている玉を打つのがあんなに難しいのか。

 深夜までこき使われたサラリーマンに嫌気をさし、小樽に戻って19歳から今のスナックを手伝い、店のママの娘さんに手足を出し永久就職。今は、マスオさんですよ。結婚したのは24歳で、1972年8月生まれの31歳。

 高校を卒業してから、40キロも太ってしまい、女一人を背負っているようなもの。背後霊でも付いているのかな?ゴルフで110を切るより先に、自分の方が110キロになったら困ちゃうな!店のお客さんは、ユッコちゃん(奥さん)に会いに来てるんだと言って帰るけど、本当は皆オレに会いに来ているんだ!オレもこんな顔だから、顔でお客さんは来ない。結局しゃべらなくてはならないんだ!」と、トレードマークの手拭いを肩からかけ、回転の良いジョークを連発しながら大笑いする、人なつっこい笑顔が魅力だ。はしご酒大会を主催する小樽社交飲食店組合の幹事に、2月から選ばれ、これからの活躍が期待される101キロの花園スナックの店長。

pubsnack PASSPORT

小樽市花園1-12-2
0134-27-2025

2004年3月のベストマスター
SNACK クラブヒッチ

玉生(たまお) 雅之マスター

 夏は手宮や祝津の海で遊び、冬は天狗山のスキー場を滑り降りて遊んだ、子供の頃の楽しさを今でも追い続け、仕事の合間に小樽の自然を満喫するアウトドアに精を出す、小樽の海と山をこよなく愛する樽っ子。花園にあるSNACK
クラブヒッチのマスター。手宮小、北山中、北照高を経て、港湾関係の仕事で横浜に1年9カ月。その頃は小樽港の衰退が著しく、港湾関係者は、仕事で横浜港出向に来ている人も多かったという。

 小樽に戻り、奥沢十字街にあった東洋ボウルと市民生協にサラリーマンとして20数年勤める。景気が下向きになり、これを機会に脱サラで転身。44歳から今の店をオープン。すでに7年目に入っている。

 店が所属する北観協の組合のはしご酒大会では実行委員を務め、その時に、店を回ってくれた参加者が、今では常連として定着し、はしご酒大会の影響は大きかったという。

 店の常連たちと“外で遊ぶクラブ”SACを作り、釣りやキャンプ、山登りなどアウトドアライフを楽しむ。渓流釣りは30年のベテランで、スキーや料理の腕も有名。小型船舶のインストラクターも務める“アウトドアの達人”でもある。

 店名のヒッチは、巻き結びの意味。「やっぱり小樽はいいよ」という言葉に実感が込もる。1952年5月生まれの51歳。花園の店の他に、昼のランチを26種類も出す同名の店を、稲穂にある日専連ビル内で経営する働き者である。笑顔がやさしいヒゲのマスター。

SNACK クラブヒッチ

小樽市花園1-11-24 スパルビル
0134-24-4844

2004年2月のベストマスター
寿し処 ひきめ

蟇目(ひきめ) 敏一マスター

 小樽花園の花銀通りの寿司店ひきめの店主。日本海に面した瀬棚の生まれ。小中学校を、冬の厳しい瀬棚で過ごし、中卒後、名古屋の紡績工場に就職。しかし、名古屋の暑さは骨身に堪えた。「あまりの暑さに、友達と自転車で海まで行って、足を波に浸けながら寝たこともある。」お盆に帰省して、北海道の気候の爽かさを実感。名古屋は身体に合わないと、兄がいた小樽へ。

 兄の勧めで、丸井今井にあった食堂の寿司部門に、5年間勤める。「最初は寿司をやりたい気持ちはなかったが、仕事をしているうちに、だんだん寿司の仕事が面白くなってきた」と、スパル街の角にあった寿司店で13年間の修業。この時に寿司店のほとんどのことを修得したという。この後、政寿司に8年間勤め、寿司の研鑽を積む。

 19歳の若さで結婚。20歳で子供が産まれ、生活がかかっているから、安月給でも辞めるに辞められず、店が終わってから夜のアルバイトに精を出した。

 寿司の各店での修業の後、42歳で現在の店をオープン。「店を始めた頃が、景気もどん底だったが、毎年売上も伸びており、やって良かったと思う。」

 東京で3年間修業して、昨年の春に帰って来た次男と一緒に仕事が出来るのが、「一番うれしい」と語る口調に、やさしい寿司職人の真面目が伝わってくる。47歳、今が旬のマスター。

 「瀬棚の15年より、小樽の30年の方が長くなった。小樽は暮らして住みやすい街で、他所へ行こうという気がしない。」

寿し処 ひきめ

小樽市花園1-8-1
0134-27-6433

お店のHP
2004年1月のベストマスター
おたる政寿司

中村 全博(まさひろ)マスター

 小樽を“寿司の街”にした「寿司屋通り」の生みの親で、政寿司の2代目マスター。小樽生れ、稲穂小、菁園中から札幌の中島中に転校し、札幌南高に進み、テニスで鳴らした腕前は、インターハイの全道大会で2位に。青山学院大学に進んでからも、テニス部で、学業よりテニスに打込んだという。

 大卒後、渋谷の寿司店で2年間の寿司店修業。実家が小樽で寿司店を営んでいたが、その頃の寿司店は、医者と材木商とかの金のある人しか相手にせず、一般の人には近寄りがたいものだった。2代目として、家から呼び戻されたが、板前とのケンカが絶えなかったという。

 昭和49年の第1次オイルショックで、経営危機に陥り、昭和54年に古い板前とも決別し、当時年商分の7,000万円をかけて、店を改築。メニューのある大衆化路線へと、大きく舵を切る。

 しかし、昭和57年の第2次オイルショックで、売上も激減し、赤字に追われたという。板前との軋轢からブチ切れて手を上げてしまい、売上減にも見舞われたどうしようもない時に、「生長の家」に出会い、心の中の世界へ。

 そうすると波動が変わった。自分が変われば周囲も変わり、板前やオヤジとも和解し、新しい展開に。5店で「寿司屋通り」を結成。修学旅行の800人に、5店で手分けして対応。以降、添乗員らの口コミで、観光バスが溢れ、店に客が押し寄せるようになった。これで、小樽は寿司の街になり、札幌はラーメンの街になった。

 今までの小樽観光は、運河・ガラス・寿司が、三種の神器だったが、これからは物見観光は終りにし、小樽はやさしい心のある街に変わり、観光客が安らげる街にしなければならないと熱っぽく語る。

 小樽を代表する寿司店、年商18億円の政寿司のマスターというより、社長さん。昭和23年生まれ、55歳。

おたる政寿司

小樽市花園1-1-1(寿司屋通り)
0134-23-0011

お店のHP